くたくたシェルのブログ

気ままに楽しむ燃え殻 (ash) のような人間が自分の頭の舵取りをするために書いています。つぶやくよりは考え、考え過ぎるよりは吐き出す、そんな記録を脳みその外に置きます。

無知なために振り回されて

無知は幸福。これは多分間違いない。いままでの経験と照らし合わせても、そこには必ず無知があった。そして無知であった頃の方がポジティブな感覚を保てていたし、無知であれば未来に対してポジティブでいられた。

ただその一方で、失敗の原因にも必ず無知があった。

行動の裏には常になんらかの無知が伴ってきた。この失敗体験から無知を脱したいという欲求が生じ、いつからか無知でない自分像を模索し始めた。

「無知」とは「知性が無い」、「知的でない」ということだ。「知性」とは何だろうか。

「無知」は一種の極限だ。「知的である」とは、無知と逆の方へ向かおうとする様である。または、その結果多くの知識が一貫性をもって備わっている様だ。より多くの知識が備わっているほど、より一貫性をもって備わっているほど、より知的であり、「知性」の度合いが増す。

「知識」とは何だろう。

私が思うに、見た景色、聞いた音、匂った香り、食べたときの味わい、触った感じ、痛み、そういった感覚的な世界とは別の隣りの世界にあるもの、記号化された記憶である。

知識は増えた。これからも増えるだろう。上に書いた意味でいえば「知的である」といえる。でも知識が増えるだけで知性が備わるだろうか。無知を脱することができるだろうか。失敗せず、成功できるだろうか。自らの行動を、自らの望む結果に結びつけることができるだろうか。あるいは自らの望む結果に結びつく行動を起こすことができるだろうか。

知識だけ求めていても、何か違う、何か足りない気がする。知識だけではない何かを得ないことには、求める「知性」が備わらないような気がするのだ。

それは何か。

  • 見てもいないのに見たことのある気がする景色、
  • 聞いていないのに聞いたことのある気がする音、
  • 匂っていないのに匂った気がする香り、
  • 食べていないのに食べたことのある気がする味わい、
  • 触っていないのに触ったことのある気がする感じ、
  • 感じてもいないのに感じる痛み、

これらは求める答えとはどこかが違っていて、記号化された感覚、仮想的なもの、偽物の記憶である。

足りないのは恐らく、これらとは逆の本物の記憶である。知識とは別の軸の上にある、五感で体感した物事、すなわち体験。さらに足りないのは、それらの知識と体験が時間を経て、あるいは専心をもって織りなす経験と見識だ。

注意したいのは、無知や誤解、失敗は、誤った記号化、時機の悪い遭遇、時には悪意によってもたらされるということ。知識と体験が錯綜して混乱し、それが断片化に拍車をかけ、偽物と本物が相互に絡み合い、偽物を本物と誤認するばかりでなく、本物を偽物と誤解する。そして悲しいことに本物と本物の間に誤解を生む。

・・・何を思い立って編集し始めたか忘れてしまった。

忘れがちだが、成功か失敗かを判断する局面のいずれであっても、何らかの形あるいは程度で無知を伴っているはずだ。

最大の敵は、無知ではなく、知識欲でもなく、焦躁だ。

知識は逃げない、むしろ追いかけてくることだってあるのだから、求めているものを落ち着き確かめながら、大切なものを忘れずに、あるいは仮に忘れてしまったとしても思い出す工夫をし、やると決めたことに全力で取り組んで行けば、結果はそう何度も自分を裏切るものではないと思う。

悲観的になることも少なからずあるが、この期待についてはなぜか楽観的だ。

  • 2007年5月 初版
  • 2014年8月 更新