くたくたシェルのブログ

気ままに楽しむ燃え殻 (ash) のような人間が自分の頭の舵取りをするために書いています。つぶやくよりは考え、考え過ぎるよりは吐き出す、そんな記録を脳みその外に置きます。

情報の洪水の対処法

表題に関する私の場合の舵・碇・コンパス・地図の少なくとも1つあるいはすべて。大きな流れに飲み込まれ洪水だと思っているが、ここは果たして川なのか海なのか。

それはさておき、久しぶりにはてな日記の下書きを覗いてみたら、投稿時間が 2014年8月9日 17:11:08 の古い日記、というか自戒の記録が見つかった。ごく当たり前のようなことを書き連ねた覚書なのだけど、未だに自分にとって意味があり、思い出して気をつけたい部分がある。たとえ話をもう少しシンプルにまとめたいけど、このままだと下書きのまま忘れ去ってしまいそうなので、以下、加筆修正した後、えいやっと公開してしまった。位置付けとしては、自戒のための小話くらいに思っておければ良いかと。*1

最終更新日時: 2016年3月29日 20:28

調べ物をしているとよくあることだが、入ってくる情報が新しくて、量が多く、難解だと、まず言葉が覚えられず、話についていけなくなる。これが情報の洪水に押し流されている状態。自分の理解力が自分の期待を遥かに下回っていることを痛感する。時には自責の念を感じることだってある。このような状態が長らく続くと心身ともにマイナスで本来すべきことにも集中できなくなっていく。本来であれば興味のあることだけをやっていられればいいのだが、そうもいかない現実がある。

たくさんある情報の中から、本質を捉え、実利を得ることに集中したいわけだが、知らないことで頭の中があふれ返り、分からないことだらけで混乱していると、何をしたらよいか忘れがちだ。そこで、覚えることをできるだけ少なくして、人に説明できるように理解の仕方やレベル、記憶するポイントを工夫するようとうまくいく場合が少なからずあることを忘れないようにしたい。

覚えるよりも自分なりの理解の仕方をする方が大切

情報の洪水とはいえ、外から冷静になって見てみると小さな情報で構成されていることが分かるはずだ。そうでなければ、情報の表現そのものが想定している読者の条件を自分が満たしていないと見切りをつけ、すっぱり諦めた方が時間がうく。さて、小さな情報に分解していくわけだが、新しいことを覚えるための工夫の第一歩は、このようにまず後ろに一歩下がって、既に自分が知って理解していることをもとに、もっとも簡単で抵抗なく受け入れられるところから着手することだ。情報の分解の粒度は、まさに今の自分が理解できるものに等しい。ちなみに、あくまで自分が基点なので、抵抗なく受け入れられるところがどこなのかは他人に聞いてもわからず、自分の心を素直かつ正直にして、問いかけるしかない。というのも、情報の洪水に飲み込まれているとき、飲み込まれずスイスイと泳いでいるように見える周囲の人々に流され合わせてしまい、自分も大丈夫と自分を偽り信じ込ませる不思議な心理が働く場合があるので、注意が必要なのだ。

さて、これらの地道な作業(できる人、あるいはできるときは当たり前のように無意識にできる)を積み重ねて工夫した結果えられる自分なりの理解は、自信にもつながる。いうまでもなく、自信は貴重なリソースだ。理解した暁には、図示を伴う概念的な理解の場合もあるかもしれないが、図を使わずに言葉だけでも説明できるともっとよい。できるだけ言葉を使うことで理解を緻密に検証していくことができる。まれに名前のついていない概念と遭遇する場合もあるから難しいかもしれないが、そういうときは我流で名前をつけてしまう。擬態語にするのも手だが、大抵その時点で選んだ擬態語は時間が経つと、当の自分自身でさえ不適切に感じる場合があるので有用でない。検証が済んだら、記憶を強化したり思い出しやすくするために改めて図にまとめておくとよいだろう。

これらの概念的な理解は抽象的すぎない単純な要素や関係で構成されるものがいい。単純な要素をもとに論理で組み立てていく。論理で組み立てていける限り、覚える作業から解放される。時々、実利のある形や、意外に単純な形が再現することもある。ここではパターンの認知とでもよぶことにする。パターンは繰り返し認知されるほどに自然と記憶され、理解の骨格となる。これを頼りにすれば、人に説明するときにも自然と思い出せるはずだ。

ただ、注意すべきは、パターン単独では別の具体例についての理解の根拠にはならず、証明には使えないという点だ。パターンはあくまで経験則から抽出された抽象的なものであって、別の例で成り立つ論理パターンが別の具体例でも成り立つかどうかは、具体例ごとに確認と検証が本来は必要。そういうものを不要とするために、認知の対象・要素を記号化して厳密な論理と証明された事実だけをもとに理論を構築・展開するというアプローチも存在し、強力なのだが、現実的にこの思考レベルを常時運用するのはしんどいし、能力的にも不可能な場合もあるし、何より洪水の世界では時間的な制約から諦めざるをえない場合もあるし、何より、結果的に不要な場合が少なくない。このあたりは理論の大家に委ねてしまう。直観に反するものの鵜呑みは禁物だけど。

覚えるべきかどうかの判断基準

覚えておくべきなのは、自分で一から説明はできないが公然と認められ受け入れられている事実あるいは(不条理だし避けたいが、自分の理解・納得・同意とは無関係に)人に説明する必要がある概略・要点と説明のシナリオだ。自分を含め、人に説明する必要がないこと、実用的でないことは頑張って詰め込んで覚える必要はない。どこかに記録があるか、あるいはそれらが規則性・再現性の高い普遍的な事象であれば、それで十分だ。もしそれらを説明する必要が生じたとしても、そのとき探して取り出せればいい。だから覚えなくていいと割り切る。

情報を集め、入念に準備した結果、使ったものと使わなかったものを比べてみよう。その時々で気になって仕方がないことも、後からみれば取るに足らない小さなことだったということがあるはずだ。今まさに些事と見なそうとしていることが実はとても重要なものかもしれないと考えると確かに怖いが、そこは「それを調べた結果、何をしたいか」という目的に合わせた思い切りが必要だ。

調べる前にやる価値があること

実際に説明に使った情報は、自分自身を含む説明相手が求めていたものといえる。このことは、相手が何を求めているかを事前に聞き出し、出来るだけ必要最小限に近いサイズに切り分けておくことが、情報収集や調査の効率を上げることにつながることを意味している。

求められているものがとても漠然としていて、相手も自分が何を求めているか分かっていない状況は現実にありうる。だからこそ望んで洪水に自ら溺れていくような真似をしてしまいがちだ。目的を忘れてしまい、判断・行動の指針を失ってしまう。そして脱線しやすく、集中力に欠け、迷子になる。

周りに頼りになる人がいれば、自分がどんな専門性をもち、それら周囲の人々と分業をするのが望ましいと思うが、この点については私自身、未だに答えをもっていない。周囲の人の長所を探し、専門分野を認知し尊重するように努力はしているつもりなのだが、そういう頼れる存在は稀少だし、いたとしても自立心が他人への依存を嫌うがゆえに頼らないという妙なジレンマに陥るからだ。興味がない分野の場合は陥らないが自分が身につけることに拘りたい分野に関しては陥りがちだ。自身の専門分野を固定し決断し、それ以外を断捨離できれば何かしら良いのだろうが、これがなかなかできず、必要に迫られて昨日はそちらの洪水、今日はこちらの洪水、明日はおそらくあちらの洪水?とでも言わんばかりに洪水を渡りあるいては溺れている日々だ。

自分だけでなく、周囲の人や説明する相手もまた人間だ。神様のような完全で全知全能な存在ではないことを忘れないようにしたい。完全で全知全能であることを自分や他人に求めない方が良い。不完全であり、全知全能でないということは、言い換えれば、発見の楽しみが残っているということだ。今日はここまで調べた、それで良しとして筆を置く。あとはまた明日。

それでもなお対処を迫ってくる洪水

ただ職業上、これは知っておかなければならない、と求められる事柄はある。それが何かあらかじめわかる場合はいいのだが、必ずしもそうではない場合が多いのと、それを管理する人が存在しないかあるいは存在していても機能していないから洪水が洪水のまま治らない(おさまらない)。

さて、どうやったら今日のこの洪水と明日の洪水に対処できるのか。昨日は溺れてしまった。今日も別のところで溺れそうだ。たとえ話だが、対処法0〜5までの6つに分類してみた。

対処法の話の前にそもそも論になるが、冷静になって落ち着いて見る、あるいはよく考えてみると、実は洪水というのは思い込みによる誤認で、そこは、あるいは今はすでに洪水でなく普通の川であることに気づくこともあるかもしれない。*2 何が洪水だと誤認させたのか、外因か内因か、二度と振り回されないようにしよう。

そもそも論以前の問題だが、洪水を構成する水は情報そのものを例えたものであり、必要なものという位置付け。水を全部蒸発させるとかゼロにするというのは、ここでは論外。

スコープから少し外れたそもそも論はこれくらいにしておこう。

もし、どこもかしこも洪水であり、洪水ではない場所がいつもどこにもないのであれば、そもそも昨日の時点で溺れ続けているはず。今朝溺れていなかったのに今溺れているということは、洪水でなかったところに洪水が発生したか、あるいは無意識のうちに洪水でないところから洪水なところへ移ってきたはずだ。それはいつか、あるいはどこからか。まずはそこから考える。

情報の洪水に気づいたとき、大きく2種類の場合がある。まずは洪水の中にいることを問題とみなし、対処する。下記にごく当たり前の方法で対処法を分類・整理しているが、分類自体には大した意味はない。ただ、洪水問題を解決するにあたり、状況を整理したり、まだ試していないアプローチがないか確認したり、試せるだけのことを試したかどうか自分に問い正す際の参考にすれば良い。

何もしていないにもかかわらず気付いたら洪水だった場合

何か外因によってもたらされた洪水か、あるいは気付かないほど緩やかに発生した洪水なのだろう。何かしらの予兆があったかもしれないが、気付けなかった時点ですでに時遅しの可能性がある。起きてしまったことは仕方がない。

  • まずは自力で何とかしよう。溺れないようにする手立てを探す。つかまるところ、手がかりや足がかりや陸はないか(対処法の分類A:自力で何とかする)。自己解決できた場合、実は洪水でなかった可能性もあるが、それはそれ、洪水に対処できた自分を褒めれば良い
  • 自力で無理なら、助けを呼ぼう(対処法の分類B:救済を求める・相談する)。相談相手はできれば専門家がいいのだが、そもそも問題がどの分野に属するのかや専門家が誰かわかれば苦労しない。専門家がわからない状況で相談したその相手は貴重な存在だ。感謝しよう。なお、助けを呼ぶと行かなくても、中間的な手段として人に質問する方法もある。この場合、質問内容を明確にしていく過程で、結局質問することなしに自力で解決してしまうこともある(とは言っても、Google先生と検索結果のコンテンツ、図書館や文献のお世話にはなるわけだが)。
  • 自力も他力も無理な場合、洪水を予防するために対策できることは何もない。洪水を受け入れてしまおう。この洪水はコントロールできないのだ。諦めて身を打たれよう(対処法の分類C:受け容れる・開き直る・諦める)溺れるのは嫌だけど仕方ないじゃないか。もしかしたら万に一つ自然と治まって助かるかもしれない。残念、無念。最後に祈るか。果たしてそれで済むのか。自分と同じ状況の人がいれば、そんな開き直りができるものなのかもしれない。*3
何かしていたら洪水になった場合

自分でそこに来たのなら自力で戻れる/戻せる可能性がある。何をしたか、できるだけ正確に思い出そう。複雑な洪水の場合、必ずしも直前にやっていたことが原因とは限らないので注意が必要だ。

多くの場合、洪水という問題の責任の所在という概念を度外視すれば、なぜ洪水になったかはさておき、問題に取り組む必要に迫られる場合がある。情報の洪水問題もそうだ。

いずれにせよ、陸に上がってあたりを見渡さなければ。陸はどこだ。陸に上がるためにつかまれるところはないか、まずはそこからだ。陸にたとえているものは、いまの場合、何か。それが自分なりの既知の理解なわけだ。もう一度、この自戒の記録を改めて最初から読み直そう。そして、洪水の根本原因を見つけて、その逆のことをやるのだ(対処法1:逆転的変更;問題に正面から取り組む)*4

これらが洪水という問題の再発防止のための根本的な対策、すなわち洪水を治めること。洪水はなぜ起こったのか根本原因を突き止め、洪水を未然に防止しよう。もしくは洪水を洪水たらしめるものを根絶しよう(例:流量の適正化)。ただし、このプロセスは調査・検証にかなりの時間を要する場合がある。

根本的な解決がすぐには難しい場合、取り急ぎ緊急の回避策をとることもアプローチの1つだ。可能であれば洪水の中から逃げよう(対処法2a:事後退避;問題から逃げる)。洪水が起きた状況であっても、洪水の中にいないことが最優先で、洪水の中にあっても今ならまだ抜け出せる場合がある。

もし洪水がまだ起きていなくて、洪水の予兆を察知したのであれば、事前に洪水を避けよう(対処法2b:事前回避;問題から逃げる)*5

避けるアプローチは、事前・事後にかかわらず根本解決策ではない。なぜなら、その洪水(問題)に対しては有効だが、似たような洪水には有効でない可能性はあるし、何より再発を予防できないからだ。

ちなみに、回避策の亜種として、傍観策や静観策とでも呼べるものもある。洪水が自分にはふりかかっていないものとして、事前回避することをいう。

事後退避と事前回避でもない、根本解決策とも回避策とも分類しがたい対処法もありうる。いつ回避するかではなく、どう対策・対応するかでもなく、問題と向き合う姿勢とも違う。何を変えるかという視点での分類だ。

その1つ目。洪水はそのままに、自分が変わろう。洪水に適応するのだ(対処法3:適応・学習・成長する)。洪水を放置可能にするのだ。たとえば、頑丈な潜水服を身につけ必要十分な酸素と栄養を用意し、本来のやりたいことができるのなら、身近に洪水が存在しても、それはあたかも存在しないのと同義だ。すなわち、情報を見るのをやめるとか耳栓をするなど、感覚遮断が該当するだろう。時間を決めて情報を遮断するというのも1つの手だ。*6*7*8

道具に頼って適応する以外にも、内面的に変化する方法もあるかもしれない。全身を洪水に晒すのはやめ、手だけ足だけのように部分的に洪水に慣れさせていき、徐々に洪水を学習しながら成長し適応していく方法もあるだろう。これは洪水を探して戦略的に対応する必要があるので、大方難しい。自分一人のリソース以外に、人海戦術が使えるのであれば、あらかじめ色々な適応方法の候補を出しておいて大人数で分担し、洪水に対処できるかどうか同時に試し評価・比較することで良いものを探すこともできるかもしれない。

2つ目。自分はそのままに、洪水を変えてしまおう。たとえば、あらかじめ用意しておいた大岩を落とす仕掛けを使って洪水を小さく分断するのだ(対処法4:変異作用)。洪水になる前から、ある程度の予測をしておき事前に対策を打っておくことが前提なので、対処・対応と言うよりは対策という方が正確。ちなみに、対処法1とは異なるので注意しよう。対処法4は再発防止まではしないからだ。

3つ目。自分と洪水を同時に変えてしまう方法も考えうる。言わずもがな対処法3と4の合わせ技だが、これは期待通りの効果が得られなかった場合の分析が容易でなく、対処法自体の効果を評価しづらいため、よほどの理由がない限り採用しない方が良いと思われる。

まとめ

ひとまずは主要な箇所に太線と下線と斜体でマーキングしておいたので、それらの部分を拾い読みできればと思う。

ということで、以上、その洪水が自分自身にとって真に新しく、結果的にポジティブなものである、あるいはそう成ることを願って、今日はここでおしまい。

*1:ここに書いたようなことを気にしたり意識したりする人っているのかな。意識せずにひょうひょうとうまくやっていそうな人なら見かけたことはあるが、真似できない。というかコツがあるんだろうか。

*2:たとえば、過去には洪水と認知していたものだが、成長した今の自分にとってはもはや洪水ではなくなってしまった場合や、その他、意図せず周囲に迎合してしまったりなどして、条件反射的に洪水と認知してしまった場合などがありうる。

*3:ところで本当に自分は何もしていないのか。目の前にあるのは洪水のスイッチではないのか。

*4:たとえ話の勢いで余談だが、新しい川を作ってしまうことだって発想としてはありうる。ただし、陸が減る=破壊されてしまう代償を伴う。これは既知の理解が間違っていて修正することに相当するかも。

*5:混乱を避けるため客注で余談。予兆を察知していても、好き好んでか訳あってか、洪水に突っ込みたい場合も現実にはあって、たとえば洪水を中から身をもって調査分析したい場合などがある。ただ、これはもはや回避策ではなく根本解決策のための行動だ。

*6:たとえ話の勢いで言葉あそびになるが、強力な人魚に突然変異するとかいうのもこの対処法に分類できる。洪水に溺れる人魚だっているだろうというツッコミもありそうだが、それはさておき、情報の洪水の中を泳げるようになるということだ。

*7:人魚になるという非現実的な発想が思考の上で役に立たないということであれば、洪水に足場を作ると言い換えてもいいかもしれない。他にも洪水そのものに自分がなってしまうというアイデアもある。それはもっと無理そうだし、自分が自分でなくなってしまいそうでおそらく論外だろう。

*8:困った時はたとえ話で客観視してみると楽観的になるのか、意外と稀に頭が回転して突破口が見えてくることがある。たとえ話での世界の突破口を現実世界の問題、すなわち情報の洪水問題にマッピングできればいいわけだ。なので、前提としてたとえ話は現実問題をうまくマッピングしたものであるのが望ましい。